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2024-04-19 10:23:00

帝釈寺だより 春・73号より

先日、家内とクリーニングを取りに行った時のことである。車で待っていると、側の交差点で横断歩道を渡ろうとし、中ほどで転んでいる男性に気が付いた。私が駆けつけると、右折の車からも女性が降りてその方を起こしている。よほど急いでいるのか「あとお願いしてもいいですか。」と言って走り去った。私は男性を支えて横断歩道を渡った。メガネが割れて顔は切れ、体も平衡を失っておられる。「病院まで車で送ります。」と申し出たが、「家がすぐ側だから帰ります。」「大丈夫です。」と押し切られてしまった。仕方なく車に戻ると、店の中から様子を見ていた家内が、入れ替わりに男性の所へ駆け寄って行った。男性は毎朝のウオーキング中に、持病の糖尿でひどいめまいを起こし、その交差点に来る前にも何度も転んでケガしていたらしい。その様子に気付いた、犬の散歩をしていた男性2人、出勤途中の女性2人、家内も含め5人が、男性を支えながら説得し、救急車を呼んだ。その後のことは分からないが、きっと体調がもとに戻っておられると願いたい。この時の、普段の交差点であれば、お互い挨拶を交わすこともなく、ある意味無関心にも似た淡白さで通り過ぎるだけの見ず知らずの方々が、怪我をした男性のために集まり、それぞれが一生懸命に出来ることをし、話し合っていた様は、私の心に強い印象を残した。急いでいたのに降りてくださった車の女性に、私も含めれば、通りすがりの7人は、急ごしらえの一つのチームのようであった。そして、人の心の中に確かにある、助け合い協力しあう意思や、困っている人に手を差し伸べずにいられない衝動のようなものが、はっきりと見えたことに、私は驚いた。たとえ普段は何気なくすれ違うだけの人々の間にも、その相手を助けよう、何かできることをしようという温かさは、確かに流れている。セーフティーネットというけれど、こんなに普通に、ちゃんとその仕組みが、人の心の中にあると、発見させていただいた。