縁起と歴史

 〇宝生山 帝釈寺縁起  

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(写真:帝釈寺縁起初段)

 古義真言宗高野山金剛峯寺末流なり。外院の里にあり。人皇34代推古天皇の御宇、聖徳太子の創立なり。

 貞観年中に清和天皇勝尾寺へ行幸し給う時、初めて当寺に入り給い、山上の勝尾寺を都卒の内院に表し、当寺を外院と称し給う。それより以来、外院を以ってこの里の地名となる。
 応仁年中以後に度々の兵乱にかかり、諸堂消失し、大に衰微す。慶安2年3月、秀栄法師入院し、当寺を中興す。
 境内に明神水あり。手足の痛みに付て功あり。この水至て美なり。

調査:箕面市郷土資料館

〇文書の記録

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(写真:帝釈天降臨松の碑)

 ○密教大辞典

 兵庫県三島郡豊川村粟生に在り。古義真言宗に属す、宝生山と号し、清和天皇の草創にかかる。
 往古頗る大伽藍にして、近世尚僧坊23宇ありき。本尊帝釈天王は聖徳太子の御作なり。(摂陽群談)
○摂津名所図会
 外院帝釈寺 粟生外院村にあり。(中略)帝釈天降臨の松 堂前にあり。
 明神水 境内にあり。(中略)毎年7月16日には千日詣とて、遠近ここに参衆して群をなせり。

 

 〇太平洋戦争で徴用された鐘

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 寺の鐘は、昔から村人の生活に密着した存在だった。毎日、午前と午後の6時を知らせ、火事の時は半鐘代わり、また寄り合いの時でも“ゴン、ゴーン”という鐘の音一つで村のみんなが集まった。
 そんな鐘だっただけに、敗戦濃くなった太平洋戦争末期に徴用された時の村民のショックは大きかった。当時、この鐘を荷車にのせて運んだ者の一人は「気が重うて・・・」と残した。
 上の記念写真は、鐘を徴用に出す前、村人全員が晴れ着を着て法要に参列した時のもの。確りと胸の前で合掌する者、背中に赤ん坊を背負って参列する者もあり、それぞれが鐘との別れを惜しんだ。
 現在の鐘は、昭和40年頃に復元されたものである。その折も、村人全員で鋳造所へ出向き、みんなで『般若心経』をお唱えしながら、鋳型に金属を流し込んだ。帝釈寺に鐘が帰ってきた瞬間だった。

 この写真は、今も本堂に掲げられている。

 

 〇帝釈天降臨松の伐採

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帝釈寺には、かつてご神木の立派な松の木があった。樹齢1200年、樹高20数メートル、幹周りは大人5人が手をつないでやっとだったとか。

 一本の木からのびた枝が、帝釈寺全体がおおっていたため、帝釈天が降臨された松“降臨の松”と名付られ、守り神のように信仰されてきた。
 しかし、度重なる落雷と老朽のため、昭和30年頃、とうとう伐採されることになった。上の記念写真は伐採直前に、降臨の松の前でおさめられたもの。お年寄りから子供まで村人全員が集まっている。
 それから後、鎮守社を造営中、伐採した松の根の一部が地中から発見された。今その場所には、鎮守様をお祭りしている。